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【オランダ開催】「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典で目の当たりにした人々の涙

【オランダ開催】「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典で目の当たりにした人々の涙

毎年7月11日は、ボスニア東部の小さな街スレブレニツァでは過去に起きた悲しい出来事を思い起こされる重要な日になります。

それは、ボスニア紛争中末期の1995年7月に起きた「スレブレニツァの虐殺」犠牲者を追悼する記念日であると同時に、事件が起きたスレブレニツァ近くの町ポトチャリで追悼記念式典が行われる日だからです。

「スレブレニツァの虐殺」とは、ボスニア系セルビア軍(スルプスカ共和国軍)によって8千人以上の一般市民であるボスニア系ムスリム人(ボシュニャク人)が短期間の間に大量虐殺された事件であり、第二次世界大戦以降のヨーロッパで最大の大量虐殺とされています。

 

そして、2002年より毎年7月11日には「スレブレニツァの虐殺」で犠牲となった人々を追悼する記念式典が執り行われるようになり、2003年にポトチャリに記念館が建設されて以降は、ポトチャリで犠牲者を追悼する記念式典と共に、身元確認が取れた犠牲者の遺体を埋葬する儀式も執り行われるようになりました。

実は、事件後に発見された遺体の中には、身元確認が取れない遺体や埋葬に十分な遺体部分が見つからない等の問題があります。なぜならば、スレブレニツァで犠牲となった多くのボスニア系ムスリム人たちの遺体は、事件の当事者であるボスニア系セルビア軍が証拠隠滅を図るために、遺体をバラバラにして複数の集団墓地に投棄していたからです。

そのため、事件発生から20年以上の年月が経ってもなお、身元確認が取れずに埋葬されていない犠牲者数は千人を超えると言われています。

※「スレブレニツァの虐殺」の詳細に関しては、以下の記事をお読みください。

 

旧ユーゴ史に関心のある私は、2012年から毎年ポトチャリで行われる追悼記念式典の様子を映像を通して見ていますが、埋葬される遺体が入った緑色の棺に寄り添って泣き叫ぶ犠牲者家族の姿を見ると、いたたまれない気持ちになります。

2017年にポトチャリで行われた追悼記念式典の様子

 

この「スレブレニツァの虐殺」犠牲者追悼記念日である7月11日には、現地スレブレニツァだけでなくボスニア紛争の難民が多いイギリスやドイツ、そして私が居住するオランダ政治都市ハーグでも記念式典が毎年行われています

今回は、2017年7月11日にオランダ政治都市ハーグ中心地の広場(国会議事堂前の広場)にて行われた「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典に参加して、目の当たりにした光景をまとめたいと思います。

 

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「平和の行進」一行と広場で待つ人々との合流

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典が行われた会場ーハーグ中心地の広場(通常時)

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典が行われた会場ーハーグ中心地の広場(通常時) ※執筆者が撮影

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典が行われた会場は、ハーグ中心地で国会議事堂前の広場になります。この広場の近くには、オランダが誇る画家フェルメールの有名な作品「真珠飾りの少女」が展示されているマウリッツハイス美術館があったり、広場の周囲に連なる数多くのカフェのテラス席では、多くの人々が友人たちと日光を楽しんでいる光景が見られます。

この広場では、何かしらのイベントが頻繁に開かれていたりする場所でもあり、観光客だけでなく現地のオランダ人にも人気のある場所なので、人々の注目を集めるためには最適な場所です。

 

追悼記念式典が開催されたのは15時からでしたが、「スレブレニツァの虐殺」犠牲者を追悼するとともにオランダ社会へ事件の存在を発信する意味合いも含めて、オランダ市内を11kmに渡って行進する「平和の行進 Marš Mira」がその前に行われていました。私は、この「平和の行進」にも参加していました。

※この「平和の行進」に関する詳細な内容は、以下の記事をお読みください。

 

ハーグ中心地の広場で待っていた人々

ハーグ中心地の広場で待っていた人々 ※執筆者が撮影

「平和の行進」に参加していた私を含めた一行は、1430分頃に広場へと到着しました。「平和の行進」一行が広場へ姿を現すと、広場で待っている人々から大きな歓声が湧いてきました。実は、仕事や個人的事情で「平和の行進」に参加することができなかった人々は、ゴール地点である広場に集合して「平和の行進」一行を待っていたのです。

広場で待っていた人々と合流した「平和の行進」一行は、その後広場の中心に位置するオランダ独立の祖オラニエ公ウィレム1世の銅像を中心にして、広場を一周することでカフェでお茶している人々や偶然にも立ち寄った人々へと訴えかけました。

広場を見渡してみると、別の運営側がテントやスピーカー、弾幕など追悼記念式典に向けて準備が整っていました。そして、運営側から以下のような今年の追悼記念式典プログラムが配られました。

配布された今年の追悼記念式典プログラム

配布された今年の追悼記念式典プログラム

 

以下では、この追悼記念式典プログラム通りに進んでいった当日の様子を時系列でまとめていきます。

 

開会式の宣言とボスニア系ムスリム人の国歌斉唱

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典の開会宣言

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典の開会宣言 犠牲者の名前の音読と「黙祷の歩き」

15時を少し過ぎた頃に、追悼記念式典の開会宣言がオランダ語そしてボスニア語で行われました。

そして、その後にボスニア系ムスリム人の国歌斉唱が行われました。この曲の名前は、”Jedna si Jedina“(日本語:「君は唯一の存在」)になります。歌ってくれたのは、11人の女性たちでした。

※”Jedna si jedina“が歌われた時の動画

 

この歌”Jedna si jedina“は19921998年までの前国歌であり、正式な現在のボスニア国歌は「歌詞のない」国歌となっています。

国歌に「歌詞がない」状況には民族問題が関わっており、1992年に作られた前国歌”Jedna si jedina“の歌詞はボスニア系ムスリム人にのみ関係があり、ボスニア系クロアチア人とセルビア人には全く関係がないとの批判があったために、1998年以降の国家には歌詞は存在していません。

例えば、サッカーボスニア代表の試合前に行われる国歌斉唱時には誰一人も歌っていません。しかしながら、ボスニア系ムスリム人の間ではこの国歌の歌詞”Jedna si Jedina“が本当の国歌と認識されており、彼らの多くはこの国歌を歌うと言われています。

 

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典に参加する多くの人々

「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典に参加する多くの人々 犠牲者の名前の音読と「黙祷の歩き」

こうした事情もあることから、”Jedna si Jedina“を目の前で聴いたのは初めてでしたし、歌い手の女性たちを囲う人々の中には一緒に歌う人もいました。また、歌詞がない現在のボスニア国歌ではなく、前国歌”Jedna si jedina“が歌われたことは一種のボスニア系ムスリム人の「愛郷心」の現れと捉えられます。演奏後には、参加者の人々から大きな拍手が沸き起こりました。

 

犠牲者の名前の音読と「黙祷の歩き」

犠牲者の名前の音読と「黙祷の歩き」

犠牲者の名前の音読と「黙祷の歩き」 ※執筆者が撮影

国歌斉唱が行われた後に、国際平和や国際法を専門とする2人の研究者が国際法やオランダ社会の観点から見た「スレブレニツァの虐殺」に関する話がなされました。

実は、「スレブレニツァの虐殺」とオランダの間には、複雑な問題が絡んでいます。なぜならば、敵勢力のボスニア系セルビア軍によって包囲されたスレブレニツァで治安維持とボスニア系ムスリム人の保護に当たっていた国連平和維持軍はオランダ軍であり、彼らオランダ軍は助けを求めるボスニア系ムスリム人を最終的に「見捨てる」こととなりました。

これまでオランダ政府は、オランダ軍が取った行動に対する責任を受け入れることを拒否してましたが、先日2017年6月27日にハーグ最高裁判所はスレブレニツァでのすべての犠牲者のうち、350名のボスニア系ムスリム人にオランダ政府が責任を有するという判決を下しました。この判決は、これまでのオランダ政府の姿勢に対して大きな影響を与えるものだったはずです。

 

研究者の話に耳を傾ける少女たち

研究者の話に耳を傾ける少女たち ※執筆者が撮影

こうした状況から、2人の研究者からは「オランダ政府は事件で起きたことを直視すべきだ」や「事件発生から20年以上の年月が経っているものの、オランダ政府はスレブレニツァに対して引き続き経済的援助をしていくべきだ」「オランダ軍との関連からオランダでもスレブレニツァを風化させてはいけない」などと言った発言がありました。

 

埋葬される犠牲者の名前を一人ずつ読んでいく

埋葬される犠牲者の名前を一人ずつ読んでいく ※執筆者が撮影

その後、同日に「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典が執り行われているボスニア東部ポトチャリで身元確認が済み、埋葬される71名の犠牲者の名前が読まれながら、広場の周りを巡る「黙祷の歩き」が行われました

前述したように、事件から20年以上の年月が経ってるにもかかわらず、すべての犠牲者の遺体が埋葬されているわけではありません。このことから、発見された遺体の身元を確認する作業が非常に困難であることを指し示しています。そのため、前年度の追悼記念式典から身元が確認されて、埋葬できる準備が整っている犠牲者の遺体は、記念日の7月11日にポトチャリの記念館で個別に埋葬されていきます。

 

プログラムに記載されている犠牲者名簿を見てみると、71名のうち未成年者は5名であり、最も若い少年は当時16歳でした

※「黙祷の歩き」が行われた時の動画

オランダのハーグに在住しながら、セルビア(旧ユーゴスラヴィア他諸国)で起きている現状を独自の目線で発信するフリージャーナリスト。オランダの社会文化や現地での海外生活を最前線から追いながら、かつてセルビアに留学した執筆者が、旧ユーゴスラヴィア地域の社会問題を取り上げていく。お問い合わせは、info@kotaro-journal.comまで。


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大学時代に旧ユーゴスラヴィア史を研究し、1年間セルビアに留学。旧ユーゴ史研究者に少し憧れたものの諦める。現在は、オランダ・セルビアに特化した記事を書くフリージャーナリストとして活動。

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