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【ボスニア紛争】スレブレニツァの少女が父と別れ離れになった記憶の物語

【ボスニア紛争】スレブレニツァの少女とその父に起きた悲劇の物語

2017年7月11日正午過ぎ、オランダ政治都市ハーグの中心地広場に集まった多くの人々は、一人の女性が読み上げる物語に耳を傾けながら涙を流していた。女性たちだけでなく屈強な男性たちも、目から溢れる涙を止めることができなかった。

 

この日のハーグ中心地広場では、ボスニア紛争末期の1995年7月に起きた「スレブレニツァの虐殺」犠牲者を追悼する記念式典が行われていました。「スレブレニツァの虐殺」とは、ボスニア系セルビア軍(スルプスカ共和国軍)によって8千人以上のボスニア系ムスリム人(ボシュニャク人)男性(未成年者含む)が短期間の間に大量虐殺された事件であり、第二次世界大戦以降のヨーロッパで最大の大量虐殺とされています。

※「スレブレニツァの虐殺」追悼記念式典の様子は、以下の記事をご覧ください。

 

そして、私はこの日にこの現場にいました。そして、他の聴衆と同様に私も一人の女性が読み上げる物語に耳を傾けていました。この物語の内容は、大量虐殺が起きたスレブレニツァで当時9歳だった少女が、子供時代に経験した記憶の物語でした。この物語は彼女の心からの現代社会への叫びであると同時に、当時の歴史を子供目線から知ることができる重要なオーラルヒストリーだと感じました。

そして、スレブレニツァの虐殺追悼記念式典のハーグ運営側「Marš Mira 2013」と物語の作者であり当日に音読した女性アドミーラ・シェリェ・スリャギッチの了解と協力の下、この物語をボスニア語から日本語へと翻訳してみました。

この物語を通じて、多くの日本人に大量虐殺が起きたスレブレニツァで生活していた一人の少女の身に何が起きたのか、そして子供の目からボスニア紛争はどのように映っていたのかを知る一つの史料となれば嬉しく思っています。

 

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1993年春のスレブレニツァ

スレブレニツァから強制送還を待つボスニア系ムスリム人女性や子供たち

スレブレニツァから強制送還を待つボスニア系ムスリム人女性や子供たち 出典:https://www.theatlantic.com/world/

物語を読んでもらう前に、背景知識として物語が始まる1993年春のスレブレニツァの状況を概略してみましょう。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、1991年までセルビア人、ムスリム人、クロアチア人の主要3民族が民族や宗教の違いに関係なく平和に共存していました。しかし、国内のムスリム人とクロアチア人で高まる民族主義の影響で、連邦国家として属していたユーゴスラヴィアから1992年に独立を宣言しました。

この2民族の独立に異議を唱えてボスニアのユーゴ独立を阻止しようとするセルビア人側はムスリム人とクロアチア人と対立し、約3年間にも渡る泥沼の紛争状態へと発展していきました。

セルビアの国境に近いボスニア東部に位置するスレブレニツァでは、紛争前には約70%のムスリム人と約30%のセルビア人が平和に暮らしていました。しかしながら、ボスニア紛争が始まるとスレブレニツァはボスニア系セルビア軍とボスニア系ムスリム軍との間で激しい衝突が起きるようになりました。

徐々にボスニア系セルビア軍は勢力を強め、1993年初頭にはスレブレニツァを残して周辺の街はボスニア系セルビア軍によって支配され、スレブレニツァの街に居住するボスニア系ムスリム人は孤立するようになってしまいました。孤立した街の状況は最悪で、水や物資の供給ルートが遮断されていたために極限状態に陥っていたとされています。

こうした状況に危機感を募らせた国際連合安全保障理事会は、1993年4月16日に安保理決議を可決し、スレブレニツァでいかなる武力行動も行ってはならない安全地帯と扱うことが決められました。そして、その2日後にはオランダ軍部隊からなる国際連合保護軍がスレブレニツァの街に到着しました。

※スレブレニツァの虐殺やオランダ軍との関連は、以下の記事をご覧ください。

 

以下の物語は、上記のような状況にいた一人の少女が経験した記憶がもととなっています。

 

物語-白いトラック(原語:Bijeli kamion)-

物語-白いトラック(原語:Bijeli kamion)-

1993年の春、今までにないほど薄暗く、ささやき声よりも静かで、身体に負った傷よりも痛みのある夜が近づいてきた。母の膝の上に乗る小さな少女は、この痛みを感じることができた。少女には母の心臓の鼓動が聞こえ、母の頬を伝って流れ落ちる熱い涙を感じた。母は一言も話さなかった。いや、一言も話してはいけなかった。何か大きなことが起ころうとしている悪い予感を、少女は感じ取っていた。

突然母が深呼吸をしたため、みんなが母に目を向けたが、母はただ視線を逸らしたため耐えきれない静寂が再び訪れた。その時、父が部屋に入ってきて、こう言った。

「”あれ”が到着したぞ。みんな、用意をしてくれ!」

母はすすり泣き始め、少女も泣き始めた。みんなと別れ離れにならなければならない時が、とうとうやって来たのだ。少女は別れ離れなんて望んでいない。父を置いていくことなんてできるわけがない。どうやって一人の少女が、父の存在なくして生きていくことができるのだろうか?けれども、少女の両親は決心していた。少女は、より快適で安全な場所に向かって先に進んでいかなければならない。

 

人々は家の外へ出て行き、生活を共にしている建物の前に集まった。誰一人として一言も話さず、みんな外の景色に目を向けて待っていた。その一方で、少女は「どうか、やって来ないで」と静かに心の中で神様にお願いをしていた。

「神様、どうかお願いします。みんなを送り出さないで。私とお父さんを別れ離れにしないで。お父さんと別れ離れになったら、どうやって生きていけばいいの?誰をお父さんと呼べばいいの?神様どうか、みんなを返して。みんなをスレブレニツァに送らないで。」

少女が神様にお願いしている時、人々は大きな声で話し始めた。

「”あれ”がやってきたぞ!私たちを助けにやって来た!」

母は黙りこんだまま、少女の弟を両腕で抱きしめていた。少女はお父さんの傍にいた。

「ねぇお父さん、またお父さんと会える?またお父さんを抱きしめられる?なんでお父さんは私を別の場所に送り出すの?私のことをもう愛していないの?なんでお父さんは私と一緒にいてくれないの?」

父は、少女の黒髪をゆっくりと撫で、涙で濡れた少女の頬にキスをした。そして、震えながら言った。

「私の愛する娘よ、泣かないでおくれ。お父さんはすぐに駆けつけるから、また会えるよ。今はお母さんと弟と一緒に行きなさい。お母さんの言うことをよく聞くんだよ。お父さんが駆け付けた時に、お前がお利口さんじゃなかったことをお母さんから聞かさないでおくれ。お父さんがお前を誇らしく思えるように、よく勉強するんだよ。じゃあ、お父さんはお前の後をすぐに追いかけるからね!」

 

その時にみんなが駆け足で走って行ったから、ガヤガヤと騒がしくなり始めた。少女が振り返ると、大きな複数の白いトラックが見えた。これらの白いトラックがあまりにも大きかったため、少女は怖くなって再び泣き出した。人々は小麦粉が詰まったバッグをトラックから運び出していると、人々の間で口論が始まった。

人々がバッグをすべて運び出した後、少女と弟、母親は一台のトラックに乗せられた。少女が乗ったトラックには、たったの12人しかいなかった。しかし、少女は同乗する女性や子供たちに対して気にも留めず、父のことだけを考えていた。少女は自分だけが父と一緒に残り、母と弟だけがトゥズラ*へ向かうことになればいいのにと考えていた。

※トゥズラはスレブレニツァから約50km離れた場所にある街で、ボスニア政府(ボスニア系ムスリム軍)の支配地域、つまり少女たち家族などのボスニア系ムスリム人にとって安全な地域でした。

もし父が少女と一緒にいてくれれば、家事全般すべてを学び、調理や食器洗いをして、父の身の回りの手助けができるのにと考えていた。そして、行動に移そうと決断した少女は、トラックから飛び降りるだけだった。母の手を急いで放して、少女はトラックから飛び降りた。少女は、力のある限り全速力で父のもとへ走って行った。父の名前を呼び、父と一緒に残れることを喜んだ。

 

少女が父のもとまで走って駆けつけると、父が泣いている姿を少女は見た。立ち止まり、父の目を見つめながら少女は言った。

「お父さん、どうか泣かないで。私は戻ってきたよ。私がお父さんとずっと一緒にいるよ」

父は少女の両腕を掴み、少女へキスをし始めた。そして流れる涙を堪えながら言った。

「お前は、お母さんと弟と一緒に行かなきゃいけないんだ。トゥズラの街は、安全でより快適な場所なんだよ。向こうでは、食べるものもあるし、綺麗な洋服が手に入ったり、一緒に遊べる友達がたくさんできるんだよ。」

少女は、悲しい顔をしながら父を見つめて言った。

「でもね、お父さん。私はまったくお腹空いていないよ。神様のおかげで、私たちにはとうもろこし畑があるからね。それに、私には洋服は必要ないよ。だって、私はどんな洋服でも着れる。あと、外に遊びに行かなくたって平気だよ。私には、ただお父さんが必要なだけだよ。お父さんのいない生活は、私にとって何を意味するの?私は、ただお父さんと一緒にいたいだけだよ。」

父は何も返答をせずに少女の手を取って、少女をトラックへと再び戻した。少女は大きく泣き叫びながら、父の名前を呼んだ。けれども、父の姿は少女からどんどん離れていくだけだった。少女は、父と別れ離れになってしまった心の痛みから意識を失った。

 

少女が目を覚ますと、長いあご髭を蓄え、背中に鉄砲を抱えた知らない男たちがトラックの中にいた。男たちは、女性や子供たちに向かって大きな声で怒鳴り始めた。そして、男たちは、なぜ12人しかトラック内にいないのか、私たち12人は誰なのか質問してきた。男たちは、12人の女性や子供たちを一人ずつ白いトラックから降ろした。少し時間が経つと、少女とその弟は再びすすり泣き始めた。母は、子供たちに向かって静かにして、男たちを見ないように言った。

5時間後、少女たち家族はトゥズラに向かい始めた。トゥズラに到着すると、少女は母と弟と一緒に大きな学校の体育館で眠らければならなかった。この体育館にはたくさんの女性と子供たちがいた。少女は、まだ父の名前を呼んでいた。少女は毎日のように、涙が詰まった父の目と、いつも少女の髪を撫でていた父の柔らかな手を思い出していた。父の名前を呼ぶものの、父は返答してくれない。少女は父の顔に似た人たちの中から懸命に父を探した。しかし、父を見つけることができない。父がやってくることを願ったが、まったく来ない。一日が過ぎていき、そして数ヶ月、数年と時間がただ過ぎていった。しかし、父の姿はなかった。

 

1995年7月のある日、ある人物が母を訪れてこう言った。

「あいつがやってきた。あいつが着いたぞ。」

少女は問いかけた。

「誰がやってきたの?誰が着いたの?」

この人物は少女に顔を向けて言った。

「君のお父さんがやってきたんだ。スレブレニツァから森道を抜けて、トゥズラに着いたんだ。」

少女は、数年ぶりに初めて大きな幸せを感じた。少女はまた父に会える。少女はまた父に抱きつき、キスできる。少女は父がやって来たことを友達に話そうとした。けれども、その時に少女は気がついた。たくさんの子供たちは自分の父を待っているけれども、彼らの父はやって来ていない。少女は心の中で深い悲しみを感じ、父との再開を待つ子供たちが、少女のように父と再会できる幸せを感じる日が訪れますようにと神様にお願いをした。

 

あの日から22年が経過し、この少女は一人の女性としてみんなの前に立っています。彼女は2人の美しい娘がいます。彼女は、あの時、あの場所で起きた時のように白いトラックが誰のもとにも絶対に訪れないこと、そして子供たちを両親から引き離すことが絶対にないことを神様に祈っています。あの白いトラックは、私と父を引き離しました。だから、私は自分の子供たち、そして両親と引き離された他の子供たちを守るために闘っています。

そして、憎悪と戦争の影響で、無理やり両親と引き離されてしまい、親からの愛情や面倒を受けられない子供たちが孤児院で生活しなければならない世界に、私たちが生きていることを2度と許してはいけません。

私たちがどの宗教を信仰しているか重要なのでしょうか?

私たちがなんて名前なのか重要なのでしょうか?

私たちがどこ出身なのか重要なのでしょうか?

なぜスレブレニツァがジェノサイドを2度と起こさせないようにする警告として、まったく機能していないのでしょうか?

世界中の子供たちが現在も苦しんでいる光景を、なぜ私たちは許しているのでしょうか?

私たちは、子供たちの権利を守るために戦いましょう。なぜならば、すべての子供たちは無罪であり、大人の世界の犠牲者だからです。スレブレニツァで起きたことを2度と引き起こしてはいけません!

 

まとめ

トゥズラへの行軍で犠牲となった人々を追悼するために、ハーグでも毎年7月11日に市内を行進しています。

トゥズラへの行軍で犠牲となった人々を追悼するために、ハーグでも毎年7月11日に市内を行進しています。(撮影日:2017年7月11日)

この少女の父がスレブレニツァからトゥズラへ脱出した背景には、多くのボスニア系ムスリム人たちが実行したスレブレニツァ脱出計画があります。

スレブレニツァの虐殺が起きる直前に、危険を察知していたボスニア系ムスリム人男性を中心とした約1万強の住民は、スレブレニツァから50km離れたボスニア政府支配地域のトゥズラへ脱出するために、山間部や森林を潜り抜けていく行軍を組織しました。この行軍は約6日間続き、道中でボスニア系セルビア軍の攻撃や待ち伏せに遭うなどしたために、最終的にトゥズラまで辿り着けたのは全体の3分の1(約4千~6千人)ほどだったとされています。

そのため、物語の少女のように別れ離れになった父と再会を果たすことができた子供たちは少なかったことが想定されます。この背景を知ると、「父との再開を待つ子供たちが、少女のように父と再会できる幸せを感じる日が訪れますようにと神様にお願いをした」少女の気持ちは、言葉以上の重みを感じさせます。

 

この女性が最後に発言したメッセージには、彼女自身が経験したことだからこそ発信できる強い信念が含まれています。どの宗教を信仰し、どんな名前を持ち、どこ出身なのかはまったく重要ではありません。みんな分かっていても、心のどこかでは宗教・名前・出身地で他者を分類し、自身の価値観でできた枠組みに当てはめてしまっているのではないでしょうか?

そして、自分たちの子供たちがスレブレニツァの虐殺で経験したことを現在だけでなく未来でも2度と起こさせないためにも、未来を生きる子供たちのために奮闘しなければなりません

子供たちを「大人の世界の犠牲者」にしないためにも・・・。

 

オランダのハーグに在住しながら、セルビア(旧ユーゴスラヴィア他諸国)で起きている現状を独自の目線で発信するフリージャーナリスト。オランダの社会文化や現地での海外生活を最前線から追いながら、かつてセルビアに留学した執筆者が、旧ユーゴスラヴィア地域の社会問題を取り上げていく。お問い合わせは、info@kotaro-journal.comまで。


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大学時代に旧ユーゴスラヴィア史を研究し、1年間セルビアに留学。旧ユーゴ史研究者に少し憧れたものの諦める。現在は、オランダ・セルビアに特化した記事を書くフリージャーナリストとして活動。

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