ちょうど先日Twitterのタイムライン上で、下記のようなツイートが流れてきました。
Franz Ferdinand, whose death led to the outbreak of the World War I, was born on December 18th, 1863. pic.twitter.com/LvNgGFddOX
— Marina Amaral (@marinamaral2) 2017年12月18日
このツイートが流れていた12月18日は、オーストラリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナントの誕生日になります。
多くの日本人にとっても義務教育で勉強する歴史の一部として、このフランツ・フェルディナント皇太子が1914年6月28日に暗殺された事件(サラエヴォ事件)が第一次世界大戦の引き金となったことを覚えているかと思います。
フランツ・フェルディナント皇太子が暗殺された事件が「サラエヴォ事件」と呼ばれていることから察知できるように、事件が起きた現場は現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の首都サラエヴォであり、暗殺した人物は当時20歳だったボスニア系セルビア人のガヴリロ・プリンツィプでした。
一般教養の歴史として、サラエヴォ事件によってヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦が勃発し、この世界大戦による死者数が約3,700万人と歴史上で最も死者数が多い世界大戦として学習していると思われますが、第一次世界大戦を引き起こすこととなったサラエヴォ事件の当事者であるガヴリロ・プリンツィプの名前を覚えていない、または一度も聞いたことがない人もいるかもしれません。
ガヴリロ・プリンツィプによるフランツ・フェルディナント皇太子暗殺が世界大戦の引き金となっていることから、プリンツィプの行動を肯定的に評価する人は多くないはずです。
なぜならば、プリンツィプが一国の皇太子を暗殺しなければ第一次世界大戦が起きていなかったかもしれないですからね。
しかしながら、このガヴリロ・プリンツィプの行動を賞賛し、英雄視している国または民族があります。
それは、セルビア共和国でありセルビア民族です。
今回の記事では、予備知識としてガヴリロ・プリンツィプがフランツ・フェルディナント皇太子を暗殺した背景や、当時のボスニア地域を取り巻く状況を簡単に概略した後に、どうしてセルビア人はガヴリロ・プリンツィプは英雄として捉える傾向にあるのかを解説したいと思います。
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サラエヴォ事件の概要
1914年6月28日、オーストリア =ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子とその妻は、当時同帝国の領土であったサラエヴォ(現在のボスニアの首都)を公式訪問した際に、ボスニア系セルビア人のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺される事件が起きました(サラエヴォ事件)。
最終的にフランツ・フェルディナント皇太子を射殺したのはガヴリロ・プリンツィプでしたが、事件当日は他6名の青年たちとともに暗殺計画を建てていました
ガヴリロ・プリンツィプをはじめ他6名の青年たちは、オーストリア=ハンガリー帝国からのボスニア・ヘルツェゴヴィナの解放と南スラヴ民族の統一を目指す若い学生主体の運動組織「青年ボスニア(Mlada Bosna)」に所属していました。
この暗殺事件を起こした「青年ボスニア」グループの中には、セルビア人だけでなくボスニア系ムスリム人(ボシュニャク人)やクロアチア人なども含まれていました。例えば、ユーゴスラヴィア出身で唯一となるノーベル文学賞を1961年に受賞したイヴォ・アンドリッチも「青年ボスニア」に参加していたと言われています。
※イヴォ・アンドリッチがノーベル文学賞を受賞した作品「ドリナの橋」(原文:Na Drini ćuprija)
フランツ・フェルディナント皇太子暗殺事件を起こした青年たちに武器を供与したのは、セルビア人が居住する地域全体を一国にまとめようとする「大セルビア」主義の実現を目指す秘密組織で、当時のセルビア王国軍が率いていた「黒手組(統一か死か)[Crna Ruka]」とされています。
オーストリア=ハンガリー帝国政府は、フランツ・フェルディナント皇太子の暗殺事件を引き起こした「青年ボスニア」の背後には、セルビア王国政府が関与していると非難し、提示した最後通牒をすべて無条件で受け入れなければ宣戦布告すると通告しました。
それに対し、セルビア王国政府は提示された最後通常をすべて受諾しなかったため、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告をし、第一次世界大戦へと発展していくことになりました。
※以下の書籍を参考資料として使用
当時のボスニア地域を取り巻く状況
サラエヴォ事件が起きたボスニア地域は、1482年から1878年までの約400年もの間はオスマン =トルコ帝国に支配されてきました。しかしながら、1875年にキリスト教徒(主にセルビア正教の者=セルビア民族)農民がムスリム人地主の専横に対して大規模な反乱を起こしました(ボスニア蜂起)。
この農民反乱は反オスマン=トルコ帝国運動へとボスニア全土へ拡大していき、それを支援するロシア帝国が介入して露土戦争へと発展しました。
この露土戦争で勝利したロシア帝国は敗戦国となったオスマン=トルコ帝国とサン・ステファノ講和条約を結び、この条約の中の一部としてボスニア地域には自治権が付与される形になりました。
しかしながら、このサン・ステファノ講和条約によってバルカン地域へのロシア帝国の影響力拡大を恐れたイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国は、同講和条約を修正したベルリン講和条約を結びます。
このベルリン講和条約では、当初自治権が付与されたボスニア地域がオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれることになってしまいました。400年もの間続いたオスマン=トルコ帝国支配からようやく脱出することができると思っていたにもかかわらず、また大国の支配下となってしまったわけです。
現在のボスニアもそうですが、ベルリン条約が結ばれた当時のボスニア地域も様々な民族が混在する地域でした。当時のボスニア地域では民族意識がようやく浸透し始めたばかりだったため、宗教的帰属で調査された結果、イスラム教徒38.7%、正教徒42.9%、カトリック教徒18.1%となっています(1879年)[出典:”Austro-Hungarian rule in Bosnia and Herzegovina”, Wikipedia]。
この宗教的帰属を民族的に当てはめると、イスラム教徒=ボスニア系ムスリム人(現在のボシュニャク人)、正教徒=セルビア人、カトリック教徒=クロアチア人という見方ができます。
この主要3民族のうち、ボスニア地域が大国オーストリア=ハンガリー帝国の支配下になってしまったことに強い反感を示していたのは、セルビア人たちでした。当時のセルビア人たちの間では隣にセルビア王国が独立国となり、セルビア王国に合流したい気持ちと反オーストリア=ハンガリー帝国への不満が強まっていました。
この感情がサラエヴォ事件を起こした「青年ボスニア」とオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子を暗殺したガヴリロ・プリンツィプの動機となっています。
ボスニア地域をはじめとするバルカン地域のオスマン=トルコ帝国支配の歴史を知る上で、昨年に出版された以下の新書「バルカンー「ヨーロッパの火薬庫」の歴史」が役立ちます。オスマン=トルコ帝国支配下のバルカン史を多角的に知りたい方におすすめの書籍です。
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